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バッハとロ短調ミサ曲 --序--


 いきなり「バッハとロ短調ミサ曲」の全てが書けるはずもありませんので、ほんのそのさわりをかいて第1弾とさせてもらいます。
 バッハは、音楽の授業で必ず出てきますので、日本人の大半がその名前は知っていると思うのですが、モーツァルトやベートーヴェンのようなエピソードもなく、その人物に付いて余り知られていないのではないでしょうか。ある本によれば、モーツァルトの場合は、それが事実と合っているかどうかは別として、彼の人生を題材にして「アマデウス」のような小説、戯曲が書けるが、バッハの生涯をどう調べてみても、小説の題材として面白くないというのです。
 また、音楽的な面では、高校までの音楽教育では、バッハの音楽のもっとも本質である教会音楽、特に声楽曲を敢えて避けて通っているのではないかとも思われます。取り上げられるのは、管弦楽組曲、ブランデンブルグ協奏曲、平均律クラヴィーア曲集、せいぜい教会に関係するのはオルガン曲のトッカータとフーガ ニ短調等で、これらも確かに名曲ですが、65年のバッハの人生で限られた範囲に集中しています。
 第1弾では、ごく簡単にバッハの人生とロ短調ミサ曲の作曲事情等を紹介したいと思います。

1. バッハの人生と人物
 ヨハン・セバスチャン・バッハは、1685年ドイツ中部ザクセン地方の小さな町、アイゼナハで生まれました。一族は音楽家の家系で、父親のヨハン・アンブロジウスは町の音楽師、父親の従兄弟のヨハン・クリストフは聖ゲオルク教会のオルガニスト兼作曲家として実績を残していた。他にも一族には多くの音楽家が記録されています。
 早くに両親を亡くし、長兄に育てられました。
 アルンシュタット(18歳〜21歳)、ミュールハウゼン(21歳〜22歳)、ヴァイマール(22歳〜31歳)、ケーテン(31歳〜37歳)等各地で、宮廷楽師、オルガニスト等を経験し、1723年、38歳の時にライプツィッヒの聖トーマス教会のカントールに就任し、生涯をこの地で過ごしました。
 この間、1707年、22歳の時にマリア・バルバラと結婚し、5男2女をもうけましたが、1720年バッハが35歳の時、マリア・バルバラが36歳で急死してしまいました。
 翌年の1721年にアンナ・マグダレーナ(20歳)と再婚し、さらに6男7女をもうけました。合わせて11男9女という子沢山です。もちろん当時のことですから幼時に死亡する子供も多く、男子4名、女子5名が5歳以下で死亡しています。それでも成人した子供が11人ですからやはり子沢山でしょう。
 子供達に囲まれてチェンバロを弾いているバッハの絵が残されていますし、2人目の妻のアンナ・マグダレーナ・バッハが書いた体裁を取っている「バッハの思い出」という本でも非常に家庭的なバッハ像が描かれています。
 モーツァルトと違って私信がほとんど残っておらず、残っているのは上司宛に出した公式の依頼状の類が多く、私生活をしのばせるものはほとんどありません。
 筆者の勝手な思い込みかもわかりませんが、人物像を一言で言えば、謹厳実直、真面目がカールのついた鬘を被り、フロックコートを着て歩いていたと言う感じではないでしょうか。

2. ロ短調ミサ曲
 バッハは教会音楽家として人生の大半を送っており、彼は芯からのプロテスタントでルター派に属しています。ルター派でのミサは、それぞれの国の言葉、即ち母国語で進めるのを原則としていますので、それに用いられる教会音楽もカトリック教会の場合のラテン語とは違い、母国語で歌われます。従ってバッハの場合も数え方によっては数百曲に及ぶ教会音楽はほとんどがドイツ語で、ラテン語で書かれているのは10曲にも及びません。
 しかし、ルター派の礼拝でも「キリエ」と「グローリア」だけはラテン語で歌われる習慣になっていました。バッハは、1723年にライプツィッヒの聖トマス教会附属学校のカントールに就任しましたが、このカントールという地位は、聖トマス教会附属学校の音楽教師であるとともに、その町の教会音楽を作曲し演奏する責任を負う音楽監督でもありました。こういう地位にあったバッハですが、最初の間はミサで用いる「キリエ」と「グローリア」は他の作曲家のミサ曲から借用して礼拝を進めていました。その後、自分でも作曲するようになり、現在ロ短調ミサ曲になっている「キリエ」と「グローリア」もそのような形で書かれたものの一つです。他に現在残っているものが4曲あります。バッハの場合はこのような「キリエ」「グローリア」だけのミサ曲が「ミサ・ブレヴィス」と呼ばれており、同じ呼び名ですが、モーツァルトや他の作曲家がカトリックの典礼様式に沿って作曲したミサ曲では、全楽章は揃っているものの曲そのものが短いものを「ミサ・ブレヴィス」と呼んでいるのとは意味合いが異なっています。
 現在ロ短調ミサ曲になっている「キリエ」と「グローリア」は1733年に作曲された最初の「ミサ曲」です。その動機はザクセン選定侯の宮廷楽長の称号をえるために、その音楽的な才能を示すためといわれており、それを証拠立てる献辞も残っています。こういう動機が有ったため、「キリエ」と「グローリア」だけでも1時間に及ぶような規模、また、基本的にソプラノが二つに分かれた合唱の編成、大規模な管弦楽の編成等、大変意欲的な作品になったと言われています。
 その後、15年ほど経って、人生の総決算とも言えるよな時期に、残りの楽章を追加してカトリックのミサ曲と同じ形に仕上げました。この際もまったく新しく作曲した部分のほかに、既にできていた他のカンタータ等から取り入れた個所もあります。
 何故、プロテスタントのバッハがカトリック典礼でしか用いられないミサ通常文全体を作曲したのかは一つの謎になっていますが、これについては次回以降にさせていただきます。
なお、「ロ短調ミサ曲」は、ミサ通常文全体を作曲していますが、普通のミサ曲では、「キリエ」、「グローリア」、「クレド」、「サンクトゥスとベネディクトゥス」、「アニュス・デイ」の5部構成(または「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」を独立させて6部構成)となっているところが、「キリエとグローリア」を第1部、「クレド」を第2部、「サンクトゥス」を第3部、「オザンナ、ベネディクトゥス、アニュス・デイとドナ・ノービス・パーチェム」を第4部とする4部構成となっています。
 それぞれ作曲された時期が異なり、第1部は前述のように1733年頃、第2部と第4部は1740年以降、1748〜49年頃まで、第2部は反対に第1部よりも早く、1724年のクリスマスのために単独で作曲されたものの転用となっています。このように作曲時期も大きく異なる為、そもそもバッハは「ロ短調ミサ曲」というまとまった曲と言う意識がなかったのではないか等色々な議論がされましたが、今は、バッハは統一した曲と考えていたという見方で落ち着いているようです。その辺も順次ご紹介して行きたいと思います。
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. 「バッハ事典」:磯山 雅、他編 東京書籍 1996年
  2. 「バッハ」(「知の再発見双書58」):ポール・デュ=ブーシェ著 高野 優訳 創元社 1966年
  3. 「誰も言わなかった『大演奏家バッハ』鑑賞法」:金澤 正剛 講談社 2000年

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