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トップページ > バッハ研究 > ロ短調ミサ曲について(その1:ロ短調ミサを巡る謎)

ロ短調ミサ曲について
(その1:ロ短調ミサを巡る謎)


 バッハシリーズも幾つか書いてきましたが、いよいよロ短調ミサ曲そのものについて書いてみます。取り上げるべきテーマは数多くありますが、手におえそうなところから始めます。第1回はロ短調ミサ曲をめぐる謎についてです。
 謎の第1は、プロテスタントのバッハが何故カトリックの様式に従ってラテン語のミサ曲を書いたのか。
 謎の第2は、そもそも「ロ短調ミサ曲」という纏まった曲は存在するのか。
 謎の第3というか議論の多い点としてバッハはどういう演奏形態を想定していたか。
ということです。
 ただ、どうしてもこういうテーマに触れようと思うとロ短調ミサ曲の成り立ちに触れざるを得ないので、何度も書くことになるかもわかりませんが、その辺にも触れながら書いていきたいと思います。
 次回は、各曲の成り立ち、音楽的な特徴についてまとめてみたいと思っています。

1.「ロ短調ミサ曲」の作曲動機

(1) 第1部〈Kyrie〉と〈Gloria〉
 「ロ短調ミサ曲」のうち、〈Kyrie〉と〈Gloria〉は、1733年にドレスデンの選定侯から宮廷作曲家の称号を得るために献呈したことは、作曲家自身の献呈状も残っているので疑いの余地はない。この献呈の動機としては、この頃は、ライプツッヒのトマスカントールに就任してから10年ほどが経過し、何かと市の当局者との間に軋轢が生じてきたのを有利に展開しようとしたことにある、というのが定説である。
 ここで、ライプツッヒとドレスデンの関係に触れておく。当時のドイツは、神聖ローマ帝国とはいうものの各地の王侯が力をもち、神聖ローマ帝国はその合意の下に成り立っている状況で、神聖ローマ帝国の皇帝は7人の「選定侯」により選ばれる決まりになっていた。周辺の列強では英国のエリザベス王朝、フランスのブルボン王朝のようにいわゆる絶対君主制が成立していたのとはかなり違った政治体制であった。このような政治体制の下で、ライプツッヒはザクセン州に属し、そこの州都がドレスデン、領主がドレスデン選定侯であった。従って、ドレスデン選定侯の宮廷でしかるべき地位にあるとなれば、地方組織であるライプツッヒの市当局も粗末には扱えなくなるという、今でも通用しそうな役人の行動パターンを期待していたということである。
 自身の芸術的能力を示すためにドレスデン選定侯に作品を献呈するにしても何故ミサ曲かということになるが、ドレスデン選定侯はポーランド国王も兼ねていたためカトリックであったということがあげられている。ルター派のプロテスタントの教会でもミサにおいて〈Kyrie〉と〈Gloria〉は演奏されていたので特に違和感もなかったのであろう。
(2) 典礼文全体への作曲
 何時バッハがカトリックのミサ典礼文全体に曲をつけようと考えたのか。これ自体まったくの謎である。
 1740年代になってからということについて異論は無いが、1740年代の前半なのか、人生最後の2〜3年(1748〜1750)なのか明確にはわかっていない。
 また、ドレスデン選定侯に献呈した〈Kyrie〉と〈Gloria〉を最初から念頭においていたのか、あるいはミサ典礼文全体に作曲しようと思い立ってから、それまでに作曲していた5組の〈Kyrie〉と〈Gloria〉からこれを選んだのか、それも明確にはなっていないが、曲の規模や構成からみて、ドレスデン選定侯に献呈したものと他の4組との間には大きな差があり、ミサ典礼文全体に作曲することを思い立ったときにはドレスデン選定侯に献呈したものが念頭にあったようである。
 思い立った時期はよく判っていないが、実際に書かれた時期については、筆跡や、自筆譜に用いられている紙の研究等の最近の研究によってかなり明確になってきている。(バッハの晩年は身体的な問題か文字が乱れている)
 それによると、第2部〈Symbolum Nicenum(Credo)〉と第4部〈Osanna〜Dona nobis pacem〉までは、晩年の1748年秋から1749年夏までの間という説が有力である。
 では、第3部の〈Sanctus〉は何時かということになると、これは単独の作品として1724年の暮れにその年のクリスマス第1祝日の礼拝式で上演するために作曲されたもので、当時の自筆譜でも確認できるため、間違いないようである。なお、ルター派の礼拝式でも、〈Kyrie〉、〈Gloria〉の他に、キリスト教の礼拝の最も枢要な部分である「聖変化」(パンとぶどう酒がキリストの肉と血に変わる)の時にラテン語による〈Sanctus〉が歌われるのが通例で、バッハは他にも何曲か単独の〈Sanctus〉を残している。
 以上をまとめるとこういうことになるのではないかといわれている。
 まず、ミサ曲全体を作曲することを思い立ってバッハは、1733年にドレスデン選定侯に献呈した〈Kyrie〉、〈Gloria〉に続けて〈Credo〉の歌詞に基づいて〈Symbolum Nicenum〉を書いて第2部とし、第3部に20年以上前に作曲してあった〈Sanctus〉を書き込んだ。そして第4部として、〈Osannna〉以下の部分を作曲していった。
(3) 動機
 さて、本題に戻って、プロテスタントのバッハが、カトリックの典礼様式であるミサ通常文への作曲を何故思い立ったかということである。

a. 注文による可能性
 まず、一つの可能性としては、カトリックであるドレスデン宮廷から注文を受けたということがある。
 バッハは「宮廷作曲家」であったのでこういうことが有っても不思議は無いのだが、そのことを証明するものは何も残っていない。さらに、先に献呈した〈Kyrie〉、〈Gloria〉も演奏されたという確かな記録は無く、まして《ロ短調ミサ曲》として出来上がった形からみるとその長大なことから礼拝で用いる実用性には遠いように思われる。このことから、実用的な目的の注文による可能性はまず無いであろうというのが定説となっている。
 では、バッハが自発的に書いたということになるが、考えられる観点として、バッハ自身の信仰的な側面と、音楽史的な側面が挙げられている。

b. 信仰上の理由
 まず、信仰的な側面からの推論である。
 バッハは年齢とともにカトリック対プロテスタントという対立的な考え方から離れ、カトリックに対して寛容になってきたといわれている。
 ところで、バッハの時代といえば、社会全般ではまだまだ新・旧両派の対立は激しく、それが原因で何十年にも及ぶ戦争が幾度もヨーロッパ各地で起こっており、バッハの生まれる少し前までドイツでも30年戦争が戦われ、バッハの時代にはまだのその傷跡が残っていたと思われる時代なので、ライプツッヒの雰囲気からはカトリックに寛容になるということは今の我々では考えが及ばないようなことだったのかもしれない。
 ここからは資料を離れて筆者の主観で書くので、的外れになるかもしれないが、2月の3連休、練習にも行けずに吹雪きの青森でこの資料をまとめるうちに閃いたことを書かせてもらう。
 つまり、上に書いたような社会情勢だったからこそ、バッハは、新旧両派の融合と言うことを痛切に望み、それを音楽を通して体現しようとしたのではないかということである。
 また、後々、各曲の個別解説を書く際にも取り上げるつもりだが、最終楽章の"Dona nobis pacem"に込める意味合いが鍵かもしれない。というのは、"pacem"という言葉を普通ミサ曲では「平安」という内面的な意味に訳しているが、西洋の言語では内面の「平安」と外的社会の「平和」のどちらにも訳せるのである。外的社会の「平和」がなければ内面の「平安」も得がたいのも事実であり、ミサにおいて「平和」を願っても不思議はない。
 バッハ自身はプロテスタントの環境の中で育っているが、仕事の面ではカトリックの宮廷とも関係を持っており、両派の葛藤に巻き込まれて内面の「平安」を乱されたこともあったであろう。もっと広く見れば、まだまだ両派の争いが、現実の戦争に繋がりかねな状況もあっただろう。さらに、彼自身はルターの聖書のドイツ語訳や解説書を深く読み込んだと言われており、結局ルターの唱えたことは、教会の枠を越えて聖書のみに基づいた信仰に帰れと言うことであり、現実の両派の対立はこれとはかなりかけ離れた状況であったのではないかとおもわれる。そこで音楽によって、本来キリスト教のあるべき姿を描き出そうとしたと考えるのは考えすぎだろうか。
 さらに余談を書くが、"Dona nobis pacem"の"pacem"をどうきいても戦争に対する「平和」の意味に捉えて表現したのはベートーヴェンであろう。彼の「荘厳ミサ曲」の〈Agnus Deu〉はティンパニーとトランペットが鳴り響き、まさに軍隊を連想させるような曲想になっているのである。
 私見は以上にして資料にもどる。
 バッハが加齢とともにカトリックに対して寛容になった例として、小林義武氏は、〈Credo〉のなかの"Et in unum sanctam catholicam et apostolicam ecclesiam(われは一・聖・公・使徒伝承の教会を信じ)"の部分をバッハが省略することなく、逆に表現力豊かに音楽付けしていることを挙げている。ルターが15世紀の末に、当時の教会権力に疑問を持って、聖書に帰れという運動を起こしたことから言えば、この言葉には抵抗があっても不思議は無いのである。
 また、小林義武氏は《ロ短調ミサ曲》を、「宗教上の普遍性を持つ『全教会的(エキュメニカル)』なミサ曲とみなされる」と表現し、「宗教上の普遍性を持つと言うことは、すべてのキリスト教徒にとって心の支えとなることを意味し、信仰上の対立は克服されている」としている。さらに、同氏は、「歴史上数多くの教会音楽の中でも最もキリスト教的なものに属するこの作品は、同時のその信仰上の枠を破り、異教徒を含むすべての人間に仕えることになるのであると」と述べ、さらに、かつてハンス・ゲオルク・オネゲリがこの曲の出版に際し、「すべての時代の、またすべての民族の、最も偉大な音楽的芸術作品」と評したことを支持している。
 また、磯山雅氏は「カトリックをもプロテスタントをも超えた汎宗教的態度によって綴られ、神に捧げられた」と表現している。
 また、音楽の様式の面からもカトリック教会の伝統的な要素とプロテスタント教会の要素が融合されていると言われている。
 まず、少し長くなるがシュヴァイツァーの主張を紹介する。
 「バッハはこの作品《ロ短調ミサ曲》をもって、あたかもカトリックのミサ曲を創作しようとしたかのように思われる。バッハは、信仰というものの偉大な客観性を表現しようと努めている。また、幾つかの合唱の光輝ある壮麗さは、カトリック的な感覚を惹起する。他の楽章はしかし、カンタータの特質である主観的内省的性格を有し、バッハの信仰心のプロテスタント的側面と言えよう。偉大なものと内省的なものは互いに打ち勝つことがなく、平行して、バッハの宗教心の客観性と主観性のように、互いに交代していくのである。そのため《ロ短調ミサ曲》は、カトリック的であると同時にプロテスタント的であり、またこの巨匠の宗教的感性と同様、限りなく深く、神秘的なのである。」
 では、どのような点がプロテスタント的で、どのような点がカトリック的なのか、少し細かくなるが小林義武氏の意見により、具体的に紹介する。

 まず、プロテスタント的な点として、

i. 歌詞で2箇所ミサ通常文を変更している。
「〈Gloria〉のなかの二重唱‘Domine Deus’で、『主なる御一人子、最も高きイエス・キリストよ。Domine Fili unigenite,Jesu Christe,altissime』のなかの『最も高き altissime』は新教地域であるライプツィッヒの慣例に基づいて追加された。」
「〈Sanctus〉のなかの合唱で、『彼なる主の栄光は天地に満つ。Pleni sunt coeli et terra gloria ejius』のなかの『彼なる主の栄光 gloria ejus』はカトリックでは『汝なる栄光 gloria tua』であり、この変更はルターの聖書のドイツ語訳に拠っている。

ii. 異例の長さのためにカトリックの典礼では使用不可能である。

iii. 曲の4部構成、すなわち、第1部「Missa」、第2部「Symbolum Nicenum」、第3部「Sanctus」、第4部「OsannaからDona nobis pacem」はカトリックのミサ曲ではありえず、プロテスタントの「旧教会聖歌選集」の区分によっている。
iv. 第2部の「Symbolum Nicenum」において、「Crucifixus 十字架につけられ」が中心的位置をしめており、このことはキリストの受難を重視するプロテスタントの教理に一致する。ちなみにカトリックではむしろ復活に重きをおく。

他方、カトリック的な点として、

i. 第1部の〈Kirie〉と〈Gloria〉はカトリックの信者であったドレスデンの選定侯に1733年に献呈されたものである。

ii. 曲全体として、カトリックであるドレスデン宮廷に仕えたゼレンカやロッティといった作曲家のミサ曲との類似性が強い。

iii. バッハは、「われは一・聖・公(カトリック)・使徒継承の教会を信じ Et in umun sanctum catholicam et apostolicam ecclesiam」という歌詞を省略せず、むしろ音楽的に強調している。

iv. 先に指摘したささいな点を除き、歌詞はカトリックの通常文と一致する。

v. バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルが残した1790年の目録によると「大規模なカトリックのミサ曲」として記録されている。
以上のような点が挙げられているが、他にも音楽的な点では、〈Credo〉と〈Confiteor〉に、プロテスタントでも聖歌に取り入れられているグレゴリオ聖歌の旋律が用いられていることもカトリックとの融合の証左に挙げられている。

c. 音楽史的な観点
 次に音楽史的な側面からの動機の模索である。
 前述のようにバッハがミサ曲全曲に作曲しようと思い立った時期ははっきりしていないが、いずれにしても1740年代、即ちバッハ55歳以降であることは間違いない。この頃は器楽作品においても《音楽の捧げもの》や《フーガの技法》のように、対位法の集大成と言える作品を手がけており、声楽曲の方でもそれまでの作曲技法を集大成して後世への遺産としようとしたと考えられている。
 また、55歳を超えるといえば当事としては高齢であり、1740年代の後半の自筆筆跡はかなり乱れており、何らかの病に取り付かれていたと思われる。このようなことから、バッハ自身が死を予感しながらそれまでの業績をまとめようとしていたことは十分考えられることである。なお、バッハの死因は最近では糖尿病が根本原因だろうといわれている。
 その際に何故ミサ曲という伝統的なジャンルを選んだかということになるが、1730年頃には教会カンタータの作曲数が極端に減っている。
 この頃、教会や市当局との行き違いが生じて、カントールの地位にいささか嫌気が差してきた様子もある。しかし、音楽的にも、さすがのバッハもマンネリに陥ることなく次々と教会カンタータを作曲することに、行き詰まりを感じていたのと、教会カンタータや受難曲は歌詞がドイツ語であることから時代の流れに影響され易く、バッハの目指した普遍性という点からはおのずと限界があったのに対し、ラテン語の典礼文は数百年にわたって普遍であり、今後も長く、また広く演奏されることが期待できたためと考えられている。20世紀半ばに至り、カトリック教会でもラテン語は用いられなくなったが、音楽のジャンルとしてはなお命脈を保っており、バッハの狙いは叶えられたといえよう。
 音楽様式の観点からも、グレゴリオ聖歌以来数多くの作曲家がミサ通常文に作曲しており、声楽曲のすべての要素がミサ曲の中に集約されてきていると言っても過言ではない。
《ロ短調ミサ曲》では、数百年にわたる声楽曲の多様な様式が融合しているといわれているが、これも小林義武氏の言にそって具体的に示す。

i. 協奏曲的(コンチェルタント)な要素
(合唱とオーケストラで協奏曲のような絡み合いをすると言うことか)
  • Gloria in excelsis Deo
  • Cum Sancto Spiritu
  • Et resurrexit

ii. 協奏的合唱フーガ
(合唱だけで協奏曲のような絡み合いをすると言うことか。例示されている部分の伴奏は通奏低音だけ)
  • Patrem omnipotentem
  • Pleni sunt

iii. ア・カペラ様式の合唱フーガ
(無伴奏の対位法的に作曲されている部分)
  • Cum Sancto Spirituの中間部分(37小節から61小節)
  • Confiteor unum baptisma

iv. 古様式(スティレ・アンティーコ)
(パレストリーナ等の古い合唱曲の様式を倣った部分。バッハの弟子のキルンベルガーが記した理論書には『四つの声部のそれぞれが、流麗な歌唱性を有するのみならず、全体として一様な性格を保持し、その結果それらの組み合わせから唯一の完全が全体が成立するような作曲法』という表現があり、現代の研究者の間ではこれが『古様式』を特徴付けるもので、パレストリーナ等の技法がこれに当たるとしている。)
  • Kyrie eleison(2回目)
  • Credo in umun Deum
  • Confiteor unum baptisma

v. アラ・ブレーヴェ様式
(2分音符を基準拍とした書法)
  • Gratias agimus tibi
  • Dona nobis pacem

vi. 定旋律の技法
(グレゴリオ聖歌を定旋律として対位法に展開する手法。多声音楽創世の頃の手法)
  • Credo in umun Deum
  • Confiteor unum baptisma

vii. カノンの技法
(同じ旋律の模倣。以下で例示されているように重唱の箇所に多い)
  • Christe eleison
  • Domine Deus
  • Et in unum Dominum

(*筆者注:以上の例示のうち、(  )内は筆者が入れたもので正確性は保証しない)

 以上のような様式のほか、アリア様式も取り入れられている。これらのすべてがを融合した形で後世に記念碑的作品として伝えることを意図したものと考えられている。
 では、対位法を集大成するための理論的、教則本的な作品かというとそうではなく、バッハはあくまで実践の人であり、これだけ長大な作品で当事の環境では直ちに演奏することは難しい程の規模では有るが、あくまで演奏されることを前提に作曲したといわれている。
 再び、シュヴァイツァーの有名な言葉を紹介する。
 「かくして、バッハは一つの終焉であり、バッハからは何も生ずることが無く、すべてが一人バッハへと導かれて行くのだ。」
 また、音楽史でよく言われる言葉として、「J.S.Bachは"Bach"ではなく"Meer"である。」というのがある。つまり"Bach"はドイツ語で「小川」を意味するが、それまでの西洋音楽の要素のすべてがバッハによって集大成されるということから、すべての水が流れ込む「海"Meer"」にたとえているのである。
 《ロ短調ミサ曲》をもって音楽史はバロックの時代に終わりを告げたというのは一般的な見方である。
 なお、以上の点について詳しく調べてみようという方は、小林義武氏の「バッハ−伝承の謎を追う」に詳しく考察されているので是非ご覧願いたい。

2.《ロ短調ミサ曲》は一体の作品か
 そもそも《ロ短調ミサ曲》という纏まった作品は存在していないという説を唱えた代表的な学者は、新バッハ全集の《ロ短調ミサ曲》の校訂を担当したフリードリヒ・スメントである。こういう議論が出てくるのは、現在東ベルリンの国立図書館に残っている自筆総譜が、全体のタイトルが無く、後述する4部の各々が独立したタイトルページをもっていることがその一因である。
 ところで、皆さんは我々の使っている楽譜の内表紙を繁々と見たことがあるだろうか。通常我々が呼んでいるように《ロ短調ミサ曲》であればドイツ語でも"Messe in h-moll BWV-232"と書かれていれば良いはずである。ところが我々の使っているベーレンライター版の楽譜では、
Missa
Symbolum Nicenum
Sanctus
Osanna, Benedictus, Agnus Dei et Dona nobis pacem
genannt: Messe in h-moll
called: Mass in B minor
と書かれており、4つの独立した作品の集合体で、その集合体が俗に《ロ短調ミサ曲》と呼ばれているという書き方である。これは、ベーレンライター版の楽譜が新バッハ全集に基づいているためで、スメントの考え方が反映されている。
 スメントがこの校訂をまとめたのが1954年で、新バッハ全集としては最も初期に出版された部類に属しており、第2次世界大戦後の研究成果が十分反映されていなかったものである。
 スメントが結論付けた成立過程は、まず1723年頃に〈ニケア信教〉を作曲し、翌1733年に独立して〈キリエ〉と〈グローリア〉を作曲してドレスデンの選定侯に献呈、1738年か1739年頃、1736年に作曲してあった〈サンクトゥス〉を〈ニケア信教〉を書き加え、さらに〈ホサナ〉以下を加えて、最後に別に出来上がっていた〈キリエ〉と〈グローリア〉を合本したというのである。
 しかし、この説は、1958年にゲオルグ・フォン・ダーデルセンの研究により否定された。これは、バッハの手書き譜の用紙の透かし模様の研究や筆写者の研究という非常に地道な研究から論証されたものである。これ以外にも、バッハが何時も曲の最後に書くラテン語の言葉"Deo Soli Gloria(神にのみ栄光あれ)"が、"Gloria"と"Dona nobis pacem"の後にしか書かれていないこと、〈Gratias agimus〉と〈Dona nobis pacem〉に同じ旋律が用いられており、ミサ曲全体としての一貫性を意識していたと考えられること、調性が一貫性のある配置となっていること等からも、バッハはミサ曲全体を一貫性のある記念碑的作品としてまとめようとしたのだという意見が体制を占めている。
 なお、ミサ典礼文を《ロ短調ミサ曲》のように4部に分ける分け方はカトリックの5部(Kyrie, Gloria, Credo, Sanctsu et Benedictus, Agnus Dei)と異なっている。しかし、これは当時ライプツイッヒのプロテスタント教会で用いられていた「旧教会聖歌選集」の分け方に基づいているもので、"Sanctsu"と"Osanna"を別にするのも同書の考え方に沿ったものである。

3.何人で歌うことを想定していたか
 演奏形態についても色々な人が色々なことを言っているが、今回は合唱団の人数についてだけ触れる。もっと正確に書けば、いま合唱で歌っている部分をそもそも複数で歌うことをバッハは想定していたのか、すべて各パート一人ずつで、重唱曲なのではないかという議論である。
 《ロ短調ミサ曲》については演奏された記録が無いのでバッハがどういう演奏形態を"理想"としていたか分からない。
 従来はライプツィッヒの聖歌隊では各声部3人ずつで、そのうちの一人がソリストだったとされていた。当事は楽譜はすべて筆写譜だから部数は限られており、合唱といえどもパート譜しかなく、各声部のソリストが楽譜を持ち、合唱団員(リピエスト)が両側から覗き込むようにして歌ったといわれていた。
 この考え方に根本的な疑問を呈したのがアメリカのバッハ研究者ジョシュア・リフキンで、残されたパート譜にどこから合唱が入るのか、どこで沈黙するのか記入されていないのがおかしいというのである。この他にもバッハがライプツッヒの当局に人数が足りないという請願書から計算すれば各声部一人ずつしか当てられないということと、当事の習慣として、パート譜を複数の人間が使うことはあまり無いという点を挙げている。彼はこの説を実践に移しており、カンタータはもちろん、《ロ短調ミサ曲》も各パート一人ずつでの録音を行っている。この説の当否は別としても、《ロ短調ミサ曲》をすべて一人で歌うというのは相当な歌唱力である。
 今のところリフキンの説への同調者はいないようだが、明確に否定できる証拠もない。否定の根拠としては、当事のパート譜はアバウトなものであり、バッハが指揮の際に歌い始めと終わりを支持しても良いし、練習の際に口頭で伝えても出来たはずだと反論し、請願書の問題は目的が人数を増やさせることにあるので誇張が有っても不思議は無いというようなものである。そういうことでトーマス教会で実際に歌っていた人数は分からないが、同じ請願書の中でバッハは、各声部に4人ずついればその方が良いとも述べており、仮に各声部一人で歌うことがあったとしてもバッハの意図とは反することであったことは間違いない。
 では現代の演奏ではどうあるべきか。これは、現代の演奏会場、歌い手の力量、聴衆の感性等別の観点から考えるべきことであろう。ただ、幾つかのCDを聞き比べていると、新バッハ全集の楽譜では「合唱」と指定のある部分、例えば〈Gloria〉の"Et in terra pax"、では、明らかに人数を減らす、もしくは4重唱で歌っているケースがある。この辺りは最終的には演奏者、特に指揮者の判断によるべきものであることは当然である。
(Bass 百々 隆)
参考文献(今回はほとんどを以下の4点に拠った)
  1. 「バッハ−伝承の謎を追う」 小林義武著、1995年、春秋社
  2. 「バッハカンタータ研究」 樋口隆一著
  3. 「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」 磯山雅著 1985年 東京書籍
  4. 「大作曲家シリーズ『バッハ』」 マルティン・ゲック著 1995年 音楽の友社

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