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バッハの生活


 今まで、かなり固いテーマで書いてきましたが、バッハも人の子、毎日食事をし、睡眠もとり、我々と同じように日々を過ごしてきたはずです。今回はバッハへの親近感を増していただければ思い、バッハの日常の暮らしについて、これまた断片的に話題を提供してみたいと思います。

1. バッハの食生活
 それ程多くの資料が残っているわけではない。
 食生活に関係することとして、バッハの体格から。
 実はバッハの遺体と見て間違いないであろうという男性の遺体が、1894年にライプツィッヒの聖ヨハネ教会で発掘され、1950年にはバッハゆかりの聖トマス教会に移されている。この遺体の観察結果からはかなりがっちりした体格だということが報告されている。また、正真のバッハの肖像画といわれているものをみても、顔もふくよかであり発掘された遺体とも合致している。
食生活の項で、体格の話を持ち出したのは、日本人が300年前のヨーロッパを論じると、つい、貧しい食生活だっただろうと思いこみがちなのだが、こういう物的証拠から、外国の文献では、大食漢だったと書いている。この当時の食事は重い方で、1回の食事でスープ、魚、数種類の肉あるいは鳥肉が出されたとしている。これだけ食べれば、体格が良くなるのも納得がいく。
 バッハの日常のメニューは残っていないが、1716年4月ハレの聖母教会のオルガンを試奏した際にお礼の宴で出された食事のメニューが残っているので紹介する。
  • 牛肉の煮込み
  • カワカマスのアンチョビ・バターソース
  • ハムの燻製
  • ソーセージのほうれん草添え
  • 羊の塊のロースト
  • 仔牛のロースト
  • グリーンピース、ジャガイモ、チコリ
  • レタス、ラディッシュ
  • アスパラガスの温サラダ
  • ゆでカボチャ
  • 揚げ菓子
  • レモンの皮の砂糖漬け
  • フレッシュ・バター
 なんともすごいメニューである。これを書いているだけでもよだれが出てくる。もちろんこんなご馳走は特別なものであろうがそれにしても食生活の豊かさを類推させるものである。
 それに死因が糖尿病によるものとの見方も有力であり良いものを食べていた傍証であろうか。
 ただ、別の本によれば、当時のドイツ民衆の常食は燕麦の粥と燕麦のスープで、白いパンは祝祭日のみ、肉はまれなご馳走であったという記述もあり、やはりバッハは上流階級に属していたと言うことになるのであろうか。

2.バッハの嗜好品
 まずアルコールはどうだったのだろうか。遺産の中に錫製のジョッキが4個含まれており、ビールを飲んでいたことは間違いなさそうであるが、それ以外の記録は残っていない。
 一方、ワインの方は変な記録が残っている。これはワイン好きであったということを示すとともに、しまり屋さんであったことも示している。
 それは、1748年にバッハ自身からかつてバッハの家に居住していた姪のヨーハン・エリーアス・バッハに宛てられた手紙である。エリーアスがバッハ宛にワインを送ったが何かの間違いでそのうちの相当な量がこぼれていた。バッハは「一滴こぼしただけでも悔しいのに、それに加えて運賃、手数料、税金等相当払ったのので残ったワインは非常に高いものについた。」と悔しがっている。ただ、税金が高いのでサイドの送付は辞退している。
 その他の嗜好品では、相当なコーヒー好きだったといわれている。有名なコーヒーカンタータは、娘のコーヒー好きをやめさせたいと思って、父親が「旦那を見つけてやるから。」という言葉にも拘わらす、コーヒーを止めない娘を描いた楽しいストーリーだが、もともとの台本は「旦那」につられて娘がコーヒーを止めることになっていたのを、旦那よりもコーヒーを取らせたということでバッハのコーヒー好きの証と言われている。
 喫煙といっても嗅ぎ煙草を愛飲?したらしいということが、遺品の中に立派なめのうの嗅ぎ煙草入れの他、3個の嗅ぎ煙草入れがあることからいわれている。

3.バッハの給料
 バッハの給料に関しては割にデータが残っている。とはいっても今と経済構造が相当違う時代のことであるから単純に金額で議論しても意味は無いが、他の職業との比較、本人が手紙の中で書いている暮らし振り等から、そのレベルを想像してみたい。
 まず、バッハがライプツィッヒに住んでいた当時の普通の職業の給与の例として、住み込み食事付ではあるが、御者が年間12〜14ターラ、女中が8〜12ターラ、従僕が10〜12ターラという数字をある研究者は挙げている。
 では、バッハはどれ位貰っていたか。
 まだ、独り立ちせずに給費生として暮らしていたリューネブルグの聖ミカエル教会の俸給が年額で、1985年のドルに換算して25ドル(後の記述から推算すると8ターラー程度か)という記載がある。経済構造が違い、地域も違うところでの俸給をアメリカの現代の価格に換算するのもずいぶん無理があるように思うが、バッハの研究家の中には変なアプローチをする人もあるものである。
 最初に独り立ちしてオルガニストとして着任したアルンシュタットでの俸給が諸経費込みで73ターラで当時としても破格の高級だったと言われている。当時の貨幣システムがよく判らないが、別の資料では年俸50フローリン(150ドル)、それに加えて食費と住居費として58フローリン(175ドル)という数値もある。
 これが次の任地のミュールハウゼンでは、地位はアルンシュタットと同じ教会のオルガニストであったが、同じ年俸に現物支給(穀物54ブッシェル、木材約24立方メートル、魚1360グラム?)が加えられている。前任者が65ターラであったと言われているので相当厚遇されたと言える。
 ヴァイマールでは1708年、ヴルヘルム・エルンスト公付宮廷楽団の音楽家兼オルガニストに就任時した時点で150グルデン(約400ドル)、それが1714年の楽師長昇進時には250グルデンまで昇給している。この間、ハレの聖母教会のオルガニストに応募し、198グルデンの呈示を貰い、これを知ったヴァイマル公が昇給させて彼の地への転職をあきらめさせたと言う事情(というかバッハの作戦?)も寄与している。
 次のケーテンでは、宮廷楽長という高い地位に就き、本俸が月額33ターラー(年額で約400ターラー《約800ドル》)と決められている。これはケーテン侯爵の臣下の中でも2番目の高級とりで、宮廷で2番目に高位の式武官と同額、前任の楽長やコンサートマスターの約2倍と言われている。
 ライプツィッヒでは、聖トーマス教会のカントールの地位に就くが、当時の社会的な地位から言えば、ケーテンよりも給料が下がっても当然だったと言われている。1730年の友人への手紙の中で、「小生の現在の地位はおおよそ銀貨700ターラー(約1400ドル)ほどの収入になります。」と書いている。ライプツィッヒでは葬儀などがあるとそのためのモテットを書いたり演奏したりして臨時収入があり、結構それを当てにしていたようであり、先の収入はある程度の臨時収入を当てにしての数字のようである。現に先の手紙の中で、天候の良いときは臨時収入が少ないとぼやいている。これ位の収入があっても物入りで生活は楽ではないとこぼしている。
 臨時収入の一例として、1738年にザクセン選定侯のための表敬カンタータ(現在は失われている)を作曲・演奏したときの領収書が残っており、報酬が58ターラーで、そのうち50ターラーをバッハがとり、残りが町の楽師達にわけられた。
 なお、以上の記述の中に、ターラー、グルデン、フローリンという3種類の貨幣単位が混在するが、換算率はまだ勉強中である。ただ、ある本に85グルデンが73ターラーという併記があり、この率が常に使えるものとすれば、1ターラー=約1.2グルデンということになる。

4.バッハの住居
 以前に参考文献を紹介したときに、「バッハへの旅」という当時バッハが関係した建物が数多く紹介された本があると書いたが、この本の中でもバッハが実際に住んだという家はほとんど出てこない。
 数多くの文献に引用されているのがライプツィッヒでの住居である。これは聖トーマス教会付属学校の建物で、いまでいうと住み込みの舎監という感じの住み方である。平面積でいって1/4程度、1階から3階までがカントールの住居として割り与えられていたとされている。ただ、寸法が入っていないために正確な面積は判らない。広さはそこそこあったようで、カンタータの練習などは自分の家でやっていたと言われている。前述のように学校の建物のため、同じ棟に数多くの生徒が生活しており、喧騒と言う点では相当なものだったようである。
 この家に何人で住んでいたのか。バッハは20人の子沢山だったが成人したのは10人であり、その上、長子と末子では33年の差(末子はバッハが57歳の時の子供)があるので、20歳前後で独立していったとすると、同時期に寝起きを共にした子供は6〜7人が最大だったかもしれない。

5.バッハの家財
 晩年のことが少し書かれている。
 一つはケーテンからライプツィッヒに引っ越したとき、家財を4台の馬車で運んだという記録である。家族は別に2台の馬車で動いたと言う記録があるので、正味荷物だけで4台のようで、当時の馬車の積載能力はわからないが、大雑把に見て、軽トラック位あったのだろうか。
 いずれにせよ、物の貴重な時代、この分量はどれ位のものだったのか。
 バッハの家財に関する記録が他に残っているのは遺産である。これは結構詳細な記録が残っていて、12のカテゴリーに分類されている。即ち、(1)鉱山株、(2)現金、(3)借金、(4)小銭、(5)銀の品その他貴重品、(6)楽器、(7)錫の品、(8)銅・真鍮の品、(9)衣類、(10)下着類、(11)家具、(12)宗教書という分類がされており、その総計は1122ターラー、即ち年収の1.5倍程度となっている。(例のドル換算では2000〜3000ドル)
 これらの遺産のうち1/3を未亡人のアンナ・マグダレーナがとり、残りを子供達で分割している。しかし、この頃には子供達のうち、ヴィルヘルム・フリーデマン、カール・フィリップ・エマヌエルは音楽家として独り立ちしており、晩年に生まれたヨハン・クリストフ・フリードリヒ、末息子のヨハン・クリスチャンも音楽家の道を歩んでいたので、遺産のうち、楽器と楽譜をどのように分けるかは重要な問題だった。従来はアンナ・マグダレーナと先妻の子供であるヴィルヘルム・フリーデマン、カール・フィリップ・エマヌエルが特権を行使したと言うのが定説であったが、最近の研究では後の2人も重要な楽譜を相続したものがある。彼らは父親の作品をそれぞれの職務に活用した。曲の側から見れば誰に相続されたかによって運命がことなり、何時の間にか散逸してしまったものもあれば、現代まで継承されて広く演奏されているものもある。ちなみに我々が取り組んでいる《ロ短調ミサ曲》はカール・フィリップ・エマヌエル・バッハによって相続されたものである。
 もう少し遺産の中身を紹介する。
 金額的に最も高いのは楽器で、総額371ターラー(全体の約1/3)で、化粧張りクラヴサンが80ターラー、他に50ターラーと評価されるチェンバロが3台、その他、小型の鍵盤楽器や種々の弦楽器が含まれている。しかし、管楽器はまったく見当たらない。
 株や現金、錫や銅の製品はたいした額ではなく、衣類も付属品を含めて32ターラーに過ぎない。金額的に多いのは銀の器そのたの貴重品で251ターラーと1/4近い割合を占めている。その内容はメノウの嗅ぎ煙草入れ、蜀台やグラスのセット、蓋付きの酒杯等の器類が多く含まれている。
 一方家具の方は14ターラー相当の化粧張りのタンスを除けば2ターラー程度のものしかない。肌着用タンス、衣装タンス各1、黒革の椅子12、皮の椅子6、引き出しつき書き物机1、その他の机6、ベッド7という内容であるが、椅子が多いのが目に付き、大家族であったのと訪問者が多かったのを示していると言われている。
 なお、この遺産相続は、未亡人のアンナ・マグダレーナにとっては結果的に良いものではなく、彼女はバッハの死後10年間生きたが、最後は貧民として葬られるような境遇にまで没落している。息子の何人かは音楽家として大成していたにも拘わらず、経済的援助は誰もしなかったようである。
 如何でしょうか。断片的にバッハの生活の匂いがする事柄を紹介してみましたが、バッハ小父さんとその家族達に親近感を持っていただくのに役立ったでしょうか。
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. 「J.S.バッハ」 磯山雅 講談社現代新書 1990年
  2. 「バッハ(大作曲シリーズ)」 マルティン・ゲック 音楽の友社 1995年
  3. 「バッハ(知の再発見双書58)」 ポール・デュ=ブーシェ 創元社 1996年
  4. 「基本はバッハ」 ハーバート・クッファーバーグ 音楽の友社 1992年

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